人肌正観世音菩薩
人肌正観世音菩薩

明治通りを渋谷駅北口広場から新宿方向へ進むと左側、渋谷区神宮前六丁目に慈雲山長泉寺という大きなお寺があります。このお寺は康平6年(1063)に川崎土佐守基家の開基・・・浄財を喜捨して寺を作る・・・によるものでその後久寿2年(1155)に弧嶽林峰大和尚により渋谷金王丸常光の守本尊人肌正観音菩薩を祭って観音堂と堂宇を再建したと伝えられています。この「人肌観音」には不思議な話が伝えられています。

時代は今より八百四・五十年ほど昔にさかのぼります。その頃日本では天皇家や貴族たちによる政治が行われていました。藤原氏を頂点とする貴族の力は華やかな日本文化の花を咲かせてましたが元来は天皇家の出である武士たちも地方に下りその地で少しづつ力を蓄えてきて、朝廷でも源氏や平家の武士団を自分の配下に組み入れて警備などに当たらせていました。
その頃の源氏の主流に源義朝がいました。義朝は保元の戦い(1156)には勝利したのですが、次の平治の乱(1159)に藤原信頼側についていったんは勝ったものの平清盛に破れ、都落ちして東国に逃れる途中の地知多半島の野間で家臣の裏切りにあい殺されたのです。
この義朝に従って若干十七歳でありましたが常に主君と共にあって「保元」には大した働きをし麻呂の称号をいただき、また「平治」には義朝殺害の下手人たちを切って捨てるなどし、義朝の最後の様子を今日の常磐御前に知らせに行き、その後に仏門に入り義朝の供養に生涯をささげた人物が、桓武天皇よりでた兵士の一族で、渋谷の地に住んでいた金王丸 - 渋谷金王丸常光でありました。

さて前置き話はそのくらいにしましょう。この渋谷七郷の村々では領土をめぐって地元の武士たちの戦いが絶えずありました。この中で年若い金王丸が家臣を率いて戦場に進むところ敵は金王丸の名と勇姿を恐れ

「なんでも敵の大将の金王丸は館近くの八幡宮に男子が授かるようにと願をかけたところ満願の夜に金剛夜叉明王様が母後の胎内に入る夢を見て生まれたんだとか」
「うん、わしもその話を聞いたことがある。金脳丸は金剛夜叉明王の生まれ変わりだそうじゃないか。だから名前と頭と終わりの二文字をとって金王丸にしたとか」
「やれ、恐ろしや。神仏に守られてる大将に勝てるはずがない。」

と何処からともなくうわさが流れ金王丸の姿を遠くに見つけると

「出たぞっ金王丸だ。。逃げろッ」

ともう浮き足立って戦わずしくもの子を散らすように逃げ出すありさま、その向うところ敵なしでありました。
この日も宿敵田子義資(ヨシタカ)を攻めまくり、谷や原をかけめぐりましたが恐れをなしたか敵は姿を隠して隠して出てきません。夜、館へ戻った一行が昼の疲れでぐっすりと寝込んでいるところへ田子勢がどっと夜討ちをかけてきました。不意をつかれた金王丸側はあわてふためきどうすれば良いか分からずに、

「敵襲じゃ、刀はどこじゃ、兜はどこじゃ。それはわしのなぎなたじゃ。渡せ!」
「いや俺のじゃ。渡せるものか。」

何しろ暗やみの中、館は上を下にの大混乱のありさま。いくら金王丸が

「落ち着け。うろたえるな。しっかりせよっ」

と声をからして叫んでも混乱はすぐには納まりません。その騒ぎの中、矢の先に油をしめらした布きれを巻きつけ火をつけた敵の火矢が柱や壁、床にブスッ、ブスリと突き刺さり我が方ばかりが明るく照らしだされ、ついでに庭の暗がりの中より矢がヒュッヒュウッと、雨あられと飛んでくる。中には、ビュウン ビュウン ビュウーッのうなり音のする鏑矢もまじりその恐ろしさ、日ごろのは勇ましい家臣たちも物陰に隠れ首をすくめ、敵のなすままどうしようもありません。と、そのときです。突如一人の若い兵士が後ろからツツツと進み出て、飛びくる屋の中へ飛び込むやいなやこ走り駆けめぐり次々と火を消してゆきました。当然敵の矢はその若者めがけ一斉に集中します。若者の、次から次へと飛びくる矢を巧みにかわす軽やかな身の動き、その様子を見て金王丸が

「今じゃ、返し火矢を放せっ」

と大声で命令しますと家臣たちもやっと落ち着きを取り戻し、弓をばキリリと引き絞り暗がりめがけて、ヒョウッと火矢を放ちます。今度は庭の樹木が明るく照らし出されて、よく見れば敵の田子勢は意外に小勢と分かりました。こうなると金王丸側は打って変わって勢いづき

「それっ、行けっ。」

とドドッと床より駆け下り、「ウオーッ」と大声をはり上げながらあるいは刀を振りかぶり、あるいはなぎなたを振り回して我先にと攻め込む。反面田子勢は先の勢いは何処へやらあっというまに打ち破られて攻め方の多く打ち取られ残りはあわてて逃げ散りました。
激しかった戦いが終わり、家臣を取りまとめた金王丸が

「先程の勇ましき兵士は誰じゃ。どこにおるか。第一の手柄じゃ。名のり出よ。」

と捜させましたがとうとう見つけられません。
ついでに金王丸が仏間に行き今夜の戦いのお礼を言わんと常日頃より信仰していた背丈五十糎の木彫りの観音様の前に進みお姿を拝み見たとき、

「これはッ、どうしたことじゃッ」

と驚きの声を上げました。そして一段と声を張り上げ

「皆これをよく見よ。観音様のお肌がぐっしょりと濡れて、まるで玉のような汗にまみれた人の肌のようではないか」

更に言葉を続けて

「はてさて、いくら探しても勇ましき若者が見つかれなかった訳じゃ。先程の見事なはたらきはこの観音様の化身であったのか。ありがたや。」

とその霊験に両手を合わせて家臣とともに大いに感謝したのは言うまでもありません。
それからと言うものは、金王丸の懐には常にこの観音像を抱きつづけ、風塵千戈の中いかなる戦場でも身から離さなかったので木彫りであるのに人肌のように温かったと言い伝えられました。
こんなことからこの観音像はいつの間にやら『人肌正観音』を呼ばれることになり、深い因縁のあるこの長泉寺観音堂に祀られたものです。
また渋谷八幡宮も川崎土佐守基家が寛治六年(1092)に創建したと言われており、その後余りにも強い金王丸の名にちなみ金王八幡宮と改称し今日に至ってます。